
議論の前に「起業家」を定義しておきます。
個人事業と会社の「創業者」を「起業家」と呼ぶことにします。
本稿における「起業家」の例:
- 「将来の大企業」を目指して起業したベンチャー・スタートアップ企業の創業者
- 個人でiPhoneアプリを開発・販売して、雇われずに生計を立てている開発者
- 有料メルマガや著書印税により、雇われずに生計を立てているブロガー
- 数名で受託開発しているシステム開発会社の創業者
- コンビニのフランチャイズ・オーナー
- ラーメン屋の創業者・店主
ただし実質的な被雇用者(雇われている人)を除くことにします。毎月安定した報酬が得られる契約社員のような働き方の人は、本稿での議論が当てはまらないかもしれません。
不可避な起業
起業家はなぜ起業するのでしょうか。起業は統計的には割に合いません。ほとんどが失敗するわけですから。
赤字が続き、事業に失敗して廃業に至るプロセスとしては、
- 自分の給料はゼロにしてなんとか従業員への給料は払う。
- マイホームを手放して資金繰りにあてる(会社の財産と社長の財産は同一)。
- 銀行の融資限度を超えて金策に困り、クレジットカードのキャッシングも最大まで使い切り、しまいには消費者金融で借りた金を会社の運転資金にあてる。
といった行為に及ぶ場合があり、結果として傷が深くなります。事業の失敗によって「身ぐるみはがされる」ような事態に陥るのです。会社を潰したら翌月には違う事業を、などというわけにはいきません。
ここまで転落してしまう理由としては、従業員と違って社長は辞められないということがあります。
そのように不器用にしか生きられない人種が起業家なのです。一念発起して起業するというよりも、「もはや起業という選択肢しかない」と思い詰めて起業する人がいます。
起業という選択の〈実存的不可避性〉(その人がその人である限りそうせざるを得ないということ)を理解してください。
多くのアーティストが「そのようにしか生きられない」ように、多くの起業家も「そのようにしか生きられない」のです。
例外
もちろん「せざるを得ない」のではなくスマートに起業する人もいます。そのうえ成功する人もいます。あらゆる議論に例外があるように、本稿にも例外があります。当然ながら「強者」の起業家もいます。しかし例外がいても本稿の価値は損なわれないはずです。
日本に中小企業は430万社あるそうです(中小企業庁)。個人事業主を入れれば「社長」はもっと多い。そのすべてが「起業家」ではないにしても、数百万人の「起業家」がいるのは間違いない。その大半が「弱者」だと思います。
事業にはリスクがあり、「かならず上手くいく起業術」など存在しません。起業の大半は失敗しうる。無謀な起業です。そして失敗すれば転落する。
「弱者」とでも呼ぶべき危うい立場にいる数百万人の「起業家」の存在を知ってもらうために本稿は書かれました。いや、「起業家」という言葉に含まれる人々の多様さに気づいてもらうため、と言うこともできます。
新産業を生み出す起業家の待望論
「経済の成長エンジンはイノベーションだ」「日本には起業家が足りない」「起業家を増やそう」という議論には問題があります。
一部のエリートベンチャー起業家だけ見ていないでしょうか。成功者だけ見ていないでしょうか。ビジネスエリートのキャリアの延長に起業があると思ってないでしょうか。それを前提に「チャレンジが大事」だの「失敗は自己責任」だの論じてないでしょうか。
大半の「起業家」はリバタリアンでもネオリベでもマッチョでもエリートでもない、どこか欠落して「ふつう」に生きることができずに起業せざるをえなかった、弱い人々だったりします。
起業する人の多くが、能力も、経験も、心構えもないままに独立起業します。そして孤独に社会と対峙するハメになっている。これはつらいことです。
起業家を社会の一員として認めて、共生を模索するなら、もっと社会的な応援や支援が必要だと思います。(もちろん現時点でも政府・自治体の起業支援制度はありますが...)
一つ指摘しておくと、失業手当などの「雇用のセイフティネット」と、再就職しやすくなる「労働流動性の向上」は、起業家のためになる政策です。社会でマクロに見れば、起業の大半が失敗するわけですから。
そういった「弱者たる起業家」へのまなざし、包摂、制度が無い社会のままで、「次の成長産業を生み出してくれるマッチョでエリートな起業家」を待望し、その育成を論じるような議論は、歪(いびつ)だと思います。
起業はほとんど失敗するという前提で、起業に関する制度を考えてください。たしかに起業は経済にとって必要かもしれませんが、1人が成功するために失敗した99人の起業家は使い捨てですか?
※言うまでもなく「起業家は弱者だから特別に救済すべき」などという意味ではありません。前述のセイフティネットは、弱い立場にいる(起業家でない)労働者にとっても必要なものです。起業家を優先すべきだなどということではないのです。「起業を促進するならセイフティネットが必要だ」という主張は、起業家を労働者より優先していることにはなりません。
若き起業家の悩み
「上場」は起業家に希望を抱かせる「物語」です。
でも、その「物語」をもはや信じていない若い起業家が増えてきました。ベンチャーキャピタルなどが投資したいと思っても、起業家が「べつに上場しませんから」と言う。こんなコミュニケーションギャップが生まれています。
多くの若い人は、会社に勤めるとしても、一生ひとつの会社、ひとつの事業にコミットすることが難しいと思っている。起業家なら、それが「自分の会社」「自分の事業」に置き換わります。これが若い起業家の実存的な悩みです。
それを理解せずに「自分の事業に腹を括れ」と言っても、括れるはずがない。実存的な悩みを正面から受け止め、どう応えるか。ベンチャー投資家にも大変な時代です。日本のベンチャー投資は「起業家に腹を括らせる」ことを前提に成り立っていますから。
もはや「一大産業を生み出す起業家の登場を待望」するような時代ではなくなってきています。そのような古き良き時代の夢を見るより、むしろ小さな起業が無数に起こるフリーエージェント化、ノマド化の進行を肯定したほうがよいのではないでしょうか。
起業家研究
もっと「起業家」の研究が進んでほしいと思います。
人類学者は「起業家の起業という選択の実存的不可避性」をアカデミックな題材として「発見」するかもしれません。起業家という「人種」の生態を観察し、記述し、理解して欲しいと思います。起業家版『悲しき熱帯』が書かれるかもしれません。
社会学者は「起業家」を成育環境・性格・経済環境などから多面的に分析した上で「起業家の社会的包摂」という問題を設定できるかもしれません。不器用にしか生きられない起業家という人々が、社会の一員として共生していくための政治的議論に向けて、学問的な貢献をして頂きたいと思います。
個性とは傷である
橋本治「いま私たちが考えるべきこと」:
「個性とは傷である」 個性を伸ばす教育と言う人の多くは、個性というものを誤解している。個性とはそもそも哀しいもので、そんなにいいものではないのである。........
一般性をマスターしたその上に開花する個性などという、都合のいいものはない。個性とは一般性の先で破綻するという形でしか訪れないーそういうものだからしかたない。個性を獲得するは「破綻」と「破綻からの修復作業」なのである。
個性とは苦しみである
「個性のもと」とは、一般性からは逸脱しドロップアウトしたところにあり、「役にたつ」とか「創造的」とは全く正反対の性質を含蓄する「破綻」なのです。さらに「破綻からの修復」という作業だって、その作業の最中にはそれが本当に「修復」なのか、逆にさらなる「破壊」なのかさえ本人には確信が持てません。そのうちほんの一部だけがたまたま他人や社会のニーズに合致しすることがあるのですが、そうなってやっとその作業が「破綻からの修復=個性」であったと事後承認されるのです。ですから言葉の定義上「使えない個性」というのはないのです。
著者について
2000年に私が「東京のウェブ業界人」になってから10年以上が経ちました。様々な起業家に出会ってきました。そのなかにはベンチャー起業家もいれば、のんびり個人事業主をしている人もいます。2006年からはGMO Venture Partnersというベンチャー投資会社の社外協力者になり、多くのベンチャー起業家と出会ってきました。私自身も起業家です。
リンク
- 進化の本質/個性の本質 2009年2月28日
- メモ:ベンチャーと中小企業の違い 2010年3月15日
- 起業家というマイノリティの発見、理解、包摂へ向けて 2010年5月4日
- 起業の〈大きな物語〉が信じられない時代の起業・働き方 2010年5月2日


